COLUMNコラム
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預り金を「あとで処理」と先送りした先にあるもの――1316万円の懲戒事例が示す境界線
若手弁護士向け 2026.06.17.

若手弁護士

横田

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~目次~
1316万円という数字の内側で起きたこと
第一東京弁護士会は2025年5月、ある会員を除名処分としました。
理由の中心は、11名の依頼者から示談交渉を受任し、各相手方との間で示談を成立させて総額1316万円の示談金を受領したにもかかわらず、それを依頼者に引き渡さなかったことです。
除名は弁護士の身分そのものを失わせる最も重い処分であり、預り金の不交付がいかに重く受け止められているかを物語ります。
1316万円という総額は確かに目を引きますが、構造を見れば一件ごとは決して特異な金額ではありません。
複数の依頼者の示談金が、時間をかけて積み重なった結果がこの数字です。
一件あたりに割れば、日常的な示談案件で動く水準に収まることも珍しくないでしょう。つまり、誰の事務所でも起こりうる日常業務の延長線上に、この事案はあります。
注意したいのは、こうした事案の周辺には、しばしば管理破綻のサインが先行して現れることです。
会費の滞納、紛議調停への不出頭、依頼者からの問い合わせへの応答の鈍り。一つひとつは「忙しいだけ」に見えても、並べてみると、金銭と事件の管理が同時に崩れ始めていた輪郭が浮かびます。
預り金の問題は、ある日突然起きるというより、複数の小さな綻びの末に表面化するのです。
- 11名分の示談金が引き渡されないまま積み上がった
- 会費滞納や紛議調停の不出頭など、管理破綻の兆候が並ぶ
- 一件あたりは日常的な金額で、特別な事案ではなかった
- 処分は最も重い除名


受領した金銭は「速やかに」交付する
弁護士にとって、依頼者のために受け取った金銭は預り金であって、自分の財産ではありません。
受領したら速やかに依頼者へ交付する。
これは技術ではなく、最も基礎的な義務です。
弁護士職務基本規程も、預り金を自己の金銭と区別して管理し、適切に処理することを求めており、ここを軽んじることはおよそ許されません。
「速やかに」が崩れる瞬間、預り金は危険な性質を帯び始めます。手元にとどまる期間が延びるほど、他の金銭と混ざる隙が生まれ、本来の持ち主が見えにくくなる。
交付の遅れそのものが、後の混同の入口になるのです。「来週まとめて処理しよう」と思った一週間が一か月になり、その間に別の入金が重なれば、もう個々の帰属は記憶の中でしか管理できなくなります。
ここで誤解してほしくないのは、「速やかに」は迅速さの美徳の話ではない、ということです。それは依頼者の財産を、弁護士の都合や懐の事情から物理的に切り離しておくための要請です。
受領から交付までの距離を短く保つほど、預り金が事務所の資金繰りや他案件の支払いに巻き込まれる余地は小さくなる。速さは、誘惑を構造的に遠ざける防壁でもあるのです。
すぐに全額を交付できない事情があるなら、その場合でも、預り金専用の口座で他の金銭と分けて保管しておくことが基本になります。
報酬や実費を差し引く必要があるとしても、その精算は記録に基づいて明確に行い、依頼者にも内訳を示す。
受け取った金額、差し引いた費目、返した金額が一本の筋として説明できる状態にしておけば、後から帰属が分からなくなることはありません。「速やかに」が難しい場面ほど、分別管理と記録という二つ目の防壁が効いてくるのです。


混同はなぜ破綻まで一直線なのか
複数の依頼者の金銭が同一口座に入り、そこに事務所の経費まで混ざると、口座残高は「誰のものか分からない総額」になります。
ある依頼者への支払いを、別の依頼者から預かった金で立て替える――この瞬間に、後戻りの難しい連鎖が始まります。
最初は「すぐ戻せる」と思っているのが常で、だからこそ歯止めが効きません。
最初の穴を次の入金で埋めると、今度はその入金分に穴が空く。
混同は雪だるま式に膨らみ、どこかで新しい入金が途切れた瞬間に破綻が表面化します。
悪意の有無にかかわらず、構造として一方向にしか進まないところが恐ろしいのです。これは個人の倫理観の強さでは止められません。なぜなら、各時点での判断はどれも「目の前の依頼者にきちんと払う」という、それ自体は善良な動機に支えられているからです。
さらに厄介なのは、混同が始まると会計の見かけ上は何も問題がないように見えることです。口座には残高があり、求められた支払いは行われている。
破綻は、誰かが正確な帰属を計算しようとした瞬間か、入金の流れが細った瞬間に、初めて姿を現します。それまでは水面下で静かに進む。
だからこそ、混同は「起きてから直す」のではなく「起こさない設計」でしか防げないのです。
- 預り金・経費・他依頼者分が一つの残高に溶ける
- 立替えの連鎖が始まると個別の帰属が追えなくなる
- 各時点の判断は善意でも、構造は一方向にしか進まない
- 入金が途切れた瞬間に一気に表面化する


「あとで処理」が積み重なる多忙の罠
ではなぜ、まじめな弁護士がこの罠にはまるのか。
多くは悪意ではなく、多忙です。入金があっても、目の前の期日や起案に追われ、「送金と記録はあとで」と一度先送りする。その一度が常態になる。
先送りは、サボりというより、優先順位づけの自然な帰結として起きるところに難しさがあります。
先送りされた一件一件は小さくても、未処理の山は静かに積み上がります。どの入金を誰にいくら返すべきか、頭の中の記憶だけが頼りになり、やがてその記憶も追いつかなくなる。
破綻は、決断ではなく放置の集積として訪れます。ある一日に「横領しよう」と決めた人はおそらくいない。
気づいたときには、引き返せない地点をとうに過ぎていた――これが転落の典型的な語られ方です。
若手のうちに知っておきたいのは、忙しさは年々増えこそすれ減らない、という現実です。「落ち着いたらきちんとやる」という発想は、落ち着く日が来ないために永遠に実現しません。だとすれば、忙しさを前提に、忙しくても回る処理の流れを先に作っておくしかない。
意志の強さで多忙に勝とうとするのではなく、多忙でも崩れない手順を持つこと。そこに発想の転換があります。
もう一つ怖いのは、先送りが続くと、依頼者への報告まで滞り始めることです。
「示談金が入ったのに連絡が来ない」という状態は、依頼者の不信を生み、問い合わせを増やし、その対応がまた弁護士を忙しくさせる。
説明しづらさが先延ばしを呼び、先延ばしが説明をさらに難しくする悪循環です。
先に挙げた懲戒事例で紛議調停への不出頭が並んでいたのも、こうした循環の果てに、向き合うこと自体が困難になった姿だと読めます。
多忙の罠は、金銭だけでなく、依頼者との関係そのものを少しずつ蝕んでいきます。


受領を即・記録・報告・送金に変える
先送りを防ぐのはシンプルです。
預り金を「あとで処理するもの」から「受領した瞬間に動くもの」へ変えること。
受け取ったらその場で記録し、依頼者に報告し、交付できるものは速やかに送る。
この流れを意志ではなく仕組みとして固定します。
受領・記録・報告・送金を一続きの動作として束ねてしまえば、どこか一つを飛ばすことが不自然になります。
意志に頼ると、多忙な日ほど守れません。だからこそ、入金と帰属と送金状況が常に一目で分かる状態を、業務の側で用意しておく。
どの依頼者の、どの事件の、いくらが、まだ手元に残っているのか。それが画面を開けば分かるなら、記憶の負担そのものが消えます。記録は監査のためだけにあるのではなく、自分自身を守る命綱です。
境界線は「悪人かどうか」ではなく、「先送りを許す仕組みか、許さない仕組みか」にあります。除名に至った会員と、無事に実務を続けている多くの弁護士を分けるのは、人格の差というより、未処理を可視化できているかどうかの差であることが少なくありません。
だからこの問題は、自分は大丈夫だと思っている人ほど、若いうちに仕組みへ落とし込んでおく価値があります。



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